フランス料理と私

パリへ 

1987年夫の留学先であるパリに着きました。今回は長男は大学生、長女は大学受験を控えていたので、次男のbunだけを連れてきました。
短期留学のため研究所の用意した13区にあるvisiter用のアパルトマンに滞在することになりました。最初は生活に慣れることや子供を現地校に入れること、滞在許可証の手つずきにあっという間に時間が過ぎました。パリの学校は働いていない親の家庭は昼食はj自宅でとるので朝、昼そして帰宅時間と往復3回子供を向かえに行かなくてはならず忙しい毎日でした。
少し生活が落ち着くと、それでもせっかくパリに来たので何かしたいと思い、あるフランス語学校を近所に見つけました。それがフランス料理との接点になるとは思ってもいないことでした。そこで知り合ったAさんはその頃コルドンブルー(有名料理学校)に通いながらフランス話を勉強しに来ていた人で、あの有名なアメリカ映画オードリーヘップパーン主演の麗しのサブリーナの舞台になったところです。その彼女が見学にきませんか?とさそってくれたのです。そして新築になったばかりの12区にあるコルドンブルーに出かけました。学生たちに混ざって階段教室の中で講義を聞きながら、今まで悶々として暮らしていた私でしたが初めて私の求めていたものは料理だと確信しました。、そして帰国したら料理の先生になる決意をしたのでした。子供の学校のこと、授業料のことなどで絶対反対されるに違いない夫の闇の声が聞こえていましたが、逸る気持ちを抑えることはどうしても出来ませんでした。

コルドンブルー

 フランスの料理学校は学生として登録していなくてもvisiter制度で同様に授業を受けることが出来ます。日本の料理学校にはないシステムなので授業料を出せば学生と同じクラスで見学出来ます。私は子供の学校に行っている間はほとんど通っていました。夫には反対されると思い内緒にしていましたが、実家から送ってもらったお金もあっという間になくなりかけ、3ヶ月が過ぎようとしていた頃でした。息子が学校でいじめにあい、大きなこぶを作って帰宅したので夫と私はすぐさま校長に抗議しましたが結局埒が明かず日本人学校へ転入することになりました。
初級のコースもほとんど受講し、いよいよ中級かと思っていた矢先いつも同じクラスにいるKさんがホテルリッツが今度料理学校を作るそうですよ、一緒にいきませんか?と誘われました。またもや幸運の女神が私に微笑んでくれたような気がしました。このままコルドンブルーにいても証明書はもらえても卒業証書はもらえないと分かっていたので、早速その翌日にあの有名な5つ星ホテルリッツの出来たばかりの学校を見学に行きました。しかし問題は高額な授業料、どうしても夫に頼むしかないと思いその晩初めて夫に今までの事情を打ち明け、帰国したら料理の先生になって働いて返すからというと水臭いこと言うじゃないか!といってすぐさま小切手をきってくれました。これで試験に合格すれば夢のディプロームを持って帰国できる!!このときはもう天にも昇る心地でした。


ホテルリッツへ
 
これで夫の了解もしっかり取り付けていよいよスタートになったのは1988年の4月でした。滞在期間もあと3ヶ月に迫っていました。
息子が現地校から日本人学校へ転校したのも私にはラッキーでした。それというのも料理学校は朝9時から夕方6時まであり、息子を日本人学校に連れて行けば昼2時までは学校にいることが出来るからです。その後はベビーーシッターが迎えに行き、私が帰宅するまで見てもらうことにしました。
パリは4月といえども朝家を出るときは真っ暗で、地下鉄6番線に乗ってトロカデロの日本人学校まで息子と通学するのが日課になりました。ようやく明るくなりかけるのはちょうどエッフェル塔を過ぎた8時頃でした。学校まで息子を送った後、地下鉄を乗り換え料理学校に到着するとすぐ地下室で制服のズボンとエプロン、ネクタイと帽子を受け取り、すばやく着替えて授業が始まる毎日でした。午前中は前日の講義の実習から始まり午後は講義がありましたが、英語の通訳つきだったのでこれもフランス語の出来ない私には幸いでした。。朝は6時に起きて子供の弁当を作り、朝食のしたく、子供を学校へ送り、帰宅して夕食と片ずけそして当日の授業の復習のノート整理と6週間毎日このような生活が続きました。43歳の私はそれでも夢に向かって必死でした。

最初の授業

 パリ ヴァンドーム広場に面したHotel RItzは1898年セザールリッツによって創立されたルイ14世風の典雅なホテルです。帝国ホテルの元総料理長だった村上信夫さんが若い頃修行されたレストランの厨房は地下の料理学校の真向かいにありました。いよいよ最初の授業が始まることになりました。学生はここの料理学校に誘ってくださった日本人のKさんと私、ほかに台湾人、アメリカ人、カナダ人イギリス人と国籍もバラバラで計6名でした。
シェフのボンジュールの挨拶から始まり、午前中は前日の講義の実習があります。小人数制のため一人ひとつのテーブル、コンロ、道具を与えられとても充実した環境の中で雰囲気も和気合いあいでスタートをきりました。そしてお昼は午前中作った料理をフルコースで頂きます。午後は翌日の実習の講義が英語の通訳つきで進行していきますが毎日お昼にワインをのむせいか睡魔に襲われ、その声が子守唄に聞こえることも度々でした。。日本人のKさんは東京の国立大学の工学部出身で脱サラして青森でレストランを営むオーナーシェフの男性で、年齢も近いこともあり何かと心強い存在でした。

卒業試験

 いよいよ卒業試験が迫ってくると生徒もシェフにも張り詰めた空気が漂い、ついに1週間前に今まで習ったレシピーの中から18品目が発表になりました。試験の当日、試験内容を書いた封筒の中から自分で引いて、内容が始めて分かるようになっていました。それから、帰宅してその18品目の中から自信のない料理を作る毎日でした。
試験の日もいつもと変わらず、授業があって午後から実習試験が始まりました。私とKさんは2番目のグループで3時間待機することになりました。最初のグループのアメリカ人とカナダ人の友人は試験を受ける厨房に入っていく時に、まるで死刑台に上る気持ちだわーと云うほど緊張していました。そしていよいよ私たちの順番がやってきました。
私の試験内容はひらめのタルタルソースとグリンソース添えとシュークリームの白鳥とバスケットの2種類でした。
ひらめを5枚おろすのに手がぶるぶる震えてなんと1時間半の制限時間の内30分も費やしてしまいました。やっとその後は落ちつきを取り戻し、後半のデザートも時間内に出来上がりました。試験官も時々見に来る程度でKさんと話をしながらだったので気持ちは楽でした。ホテルのや隣のレストランのスタッフで採点され無事全員合格できたのを告げられたのは夜の11時でした。帰宅すると夫も心配して寝ないで待っていてくれその夜はワインで乾杯しました。今でもこの時の感動は忘れられなく、リッツの料理学校の第1号の卒業生であることを、自慢にならない自慢をしている私です。









帰国そして教室
 
やっと卒業証書をもらったのは帰国前日であった。それをリックに大切に入れて夫、次男とともに1ヶ月間ユーレイルパスの1等車を使って、北欧やヨーロッパ旅行へ出発した。次男はこのとき小学校2年生であった。
帰国してからそれぞれに忙しく過ごしているうちに1ヶ月はあっと云う間に過ぎた。ところがその後思いがけないことが起こる。パリから送った荷物が盗難にあったとヤマト運輸会社から連絡が入った。卒業証書は手元にあったことはほっとしたが、送った荷物の中には教室のレシピーや買い求めた調理道具が沢山入っていた。これでは教室が開けなくなると絶望的になった。私の荷物だけでなく、日本向けのコンテナ一台分がフランスの港で荒らされ、金目のものはほとんどないとのことであった。確認のため東京のホテルに被害者全員が呼ばれた。
大きな台の上にコンテナ一台分の荷物が無残に置かれており、この中から自分のものを探してくださいとの事で、私はとにかくレシピーだけは破れないで残って欲しいと願いながらやっとの事で山のようになった荷物の中から見つかったときには、嬉しくて涙が出そうだった。調理道具もほとんど残っており安心した。さて思いがけないハプニングはあったが、とにかく教室を開く準備にとりかかった。
当時は実家の母が鹿児島市の中心地にマンションを持っていたので、そこを拠点にして教えようとキッチンを改造した。そして問題は生徒をどうして集めるのかであるが、まだ料理学校を卒業したての私に人が集まるのかと心配していたら、なんと母が彼女の友人5名を集めてくれたので助かった!平均年齢60歳を超える生徒さんたちが毎月1回の教室を楽しみにして来て下さったことはうれしかったが、どう見ても料理を食べるのが目的の人たちばかりであった。



夫の闘病
生徒も集まり順風満帆の船出だったが半年過ぎた頃突然嵐に襲われた。夫は帰国以来1年分の仕事の空きを埋めるように忙しく特に3月は大学の文部省に納める書類に忙殺されていた。少し風邪気味で咳がでていたが4月に入ってすぐ知り合いの病院に行って肺に癌が見つかった。ある大学の医学部の教授選考の書類を出したばかりでかなり有力視されていただけに本人はさぞかし無念であったろうと思う。検査のためひと月入院して、余生半年を家族と一緒に充実して過ごしたいとの希望で大学で教えながら自宅療養になった。その間の治療は同級生の医師が代わるがわるに家に来て下さり、そして半年後私と3人の子供を遺してあっけなく亡くなってしまった。長男(医学部学生)と長女(大学生))、次男はまだ8歳であった。夫の死後、1年間は夫の遺稿集の編集にかかわり2周忌を済ませた頃、東京の友人がプロを対象にした上級フランス料理学校が西新宿に出来たことを教えてくれた。単なる主婦の趣味ではなくこれから僅かでも生活の糧にならなければと思いもう一度勉強をしに次男を母に3ヶ月間預けて単身上京した。学校の帰り道、夕方西新宿のうっすらと浮かぶビルの谷間から覗く夕日を眺めながら、パリですごした夫の事や鹿児島の次男の事などが想いだされ涙することも度々であった。これまで苦労もなく甘やかされ育った私であったが精神的に頼る人もなくこれからの生活の事など考えると不安はあったが、まっすぐ前を向いて歩くしかないと思い3件目の料理学校に再び入学することになった。

 
上級フランス料理学校
学校は西新宿にあり生徒は約20名でほとんどが有名ホテルの中堅のシェフで私みたいなパりでちょこっと勉強したぐらいな者とは違い最初から実力には雲泥の差があることは確かだった。パリの商工会議所と東京ガスの共同出資で作られ、東京ガスのショールームの中のフランス料理食文化交流センターの中に(FFCC)キッチンが作られ設備は本格的であった。教師はフランスから呼ばれ日本語の通訳を介して授業が始まった。ほとんどのシェフが現場で働いているので授業は午後から始まり午前中は希望者はフランス語のクラスがあったので私も受講した。内容の料理はプロを対象にしているので高級な食材が多く実際教室で使ったレシピーの中には使えるものはなかった。しかしプロとして知っておかなければならない知識や料理は大変役立ったと思う。夏休みには次男が一人で上京してきたので久しぶりに休みをとってディズニーランドに2泊のたびに出かけた。その頃私も疲れていたので、丁度良いタイミングだった。次男を羽田まで送ると数日後には卒業試験が待っていた。ここで地獄の苦しみを又味わうことになる。フランスの料理学校と違って今回は習ったものの料理からではなく、主菜が肉か魚でバスケットに適当に入っている野菜を使ってオリジナルの4人分の料理を作ることになる。何が当たるか分からないまま、そしてあたえられたのが鶏1わと野菜のバスケットであった。今回はデザートはなかった。時間内にオードブルとメイン料理を作らなければならず、私は鶏のビネーがー風味とインゲンのサラダを作った。制限時間内に盛り付けも済ませたらフランス人のシェフや日本人の審査員などにもっていかれ20点満点で評価されいよいよ黒板に発表された。
勿論私は最下位にあるだろうと思いみてみると私は下から2番目にあった。運動会で20人で走って19番目になったようなものである。私に一番評価をしてくださったのは17点であった。一体誰?と見てみるとあの有名な服部栄養専門学校の校長であった。フランス人の審査員はほとんど10点にも満たない評価であった。私としては時間内に完成することだけでも満足していたのだが味つけもよく盛り付けもよいとの評価を得たのはビリから2番目でも嬉しかった。卒業試験もおわり残り1ヶ月はフランスでの実習が直前に迫ったころ鹿児島の母が階段からすべり息子の世話が出来ないから帰ってきてくれといわれやむなく帰省することになった。月謝を(3ヶ月で180万円)払ってあったので事情を話したらひと月分は戻ってきたのでほっとした。




La fontaine 

東京から戻りこれから本格的に私の料理教室La fontaineもスタートした。夫が倒れる前に生徒さんだった人たちが最初の生徒であった。月謝もフルコースで5000円でワインつきだったのでほとんど労多くして益少なしであったけれど自分の夢であった料理の先生をやっていることが嬉しかった。その頃はバブル全盛期のころで少人数制でフランス料理の教室は(カルチャースクールはあったが)私が始めてであった。月謝を7000円にあげたのにもかかわらず、全く宣伝もしなかったがその内に口コミで広がり最終的には一クラスが6名から7名になり鹿児島で7クラス、その間福岡にも一クラスでき8クラスになっていた。ひと月に一度は福岡に道具や皿,テーブルクロス、ナフキンなどなどを宅急便で送り、済んだらその日に鹿児島へ帰ることも度々だったが今考えるとその頃が私の一番輝いていたときだったのかも知れない。その内次男が大学受験に失敗し福岡の予備校にはいることになった。教室を始めて10年が過ぎようとしていたが沢山の生徒さんがいたので教室を閉じることに抵抗もあったけれど思い切って家を売って福岡にうつる決心をした。
その後バブルもはじけ世の中が少しずつ景気も悪くなっていった。




福岡市へ

家を処分して福岡市中央区六本松に住まいを購入し、新たに教室を再開した。移住する前に教室は作ってあったので一クラスからスタートした。私はどうも自分を売り込むのが出来ないタイプで、ここでも生徒さんたちに助けられ、鹿児島からも来てくれたりで最終的には4クラスになった。考えてみれば私もこのときは55歳になっており気管支喘息をかかえながらかなりきつかった。けれど息子が翌年には大学にはいり仕送りもあるので働かざるを得ない状況であった。仕事もそれなりに充実して楽しかったけれど体力的には大変だった。車の運転も都会では無理だと思い止めたので食材を求めて両手に買い物袋を抱えリックサックを背負って数箇所まわるので膝を痛めて余計大変になった。ここが潮時と思い60歳を期に教室を閉じることにした。15年間の教室で出会った生徒さんの中で私と同じRITZで勉強して現在鹿児島で教室を開いた生徒さんが私のレシピーを受け継いで教えていることも幸せである。そしてもう一人は今年フランスへ仕事を辞めてパティシエになりたいといって旅たつ生徒さんもいます。若い人が料理を好きになって世界へ羽ばたく姿をみるのはとても嬉しいことです。又この間2人の生徒さんが亡くなられました。この方たちの御冥福を祈りながら、これからも私が出来ることを探し求めていきたいと思います。 


カジュアルキッチンIZU

2009年 64歳の春からカジュアルキッチンIZUをスタートした。辞めた当時の生徒さんたちに励まされ体調を考えて年5回の教室を再開した。もっと気軽に家庭で出来るように献立も全部書き換えるつもりである。これから何年できるかわからないけれど、今は料理を教えることが生きがいである。





 











 

















 
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by vanve1013 | 2010-01-05 15:39 | フランス料理と私
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